傀儡音楽

かいらいおんがく

同じCDを何十枚も購入しようとけしかけるのは誰なのか

でも、何だろう。同じCDを何枚も買ったり、人がしないような努力をしたりして、レアグッズを手に入れたり、特別イベントに参加したりするっていう行動について考えてみると、その評価が自分を中心とした位置にない気がするんですね。もっと言っちゃうと「ファンの間でする、自慢の為」以上のものがないように思うんです。俺あのグッズ持ってるぜ、もちろんあの特別イベント最前列で参加しましたよ、っていう仲間内へのアピールするだけ、仲間から「お前すげえな、ファンとしてのレベルが高いな」っていう評価だけ……という感じ。自分を中心とした位置にある評価は「これだけお金と時間を注ぎ込みました」っていうマゾヒスティックな満足感だけ、になっちゃってるというか。違うかなぁ?
もちろん俺だって、他の人が観てない特別なイベントを観られた実績があったら、やっぱり自慢ですよ。優越感がある。そして、ライブは同一のものは存在し得ないし、その瞬間を最大限に楽しむって意味でかけがえのないものってのは理解してるつもり。ただそれを数珠繋ぎにしていった時に、その続行をけしかけているものが「自らの欲求」から「他人からの評価・他人への自慢」へと移って、比重が変わっていく気がするんですよ。仲間との話題の為というか、自慢したり評価を受けたりする相手がいなかったら同じCDを何十枚も買わないんじゃないか、って気がするんです。
CDだけじゃないです。44枚それぞれ違うポスターをコンプリートで手に入れて、そのポスターをどのくらい長い間、愛でることができるのでしょう? そもそも「デザインがどんなものかもほとんど不明なポスター」を欲する理由は何なのか。本当にイベント参加券として積まれているだけ、ってこともあるとしたら、ポスター自身も役割を果たせずやっぱり悲しんでいるでしょうか?
「曲が素晴らしいから何度も聴きたい、CDとして所有したい」「デザインが素晴らしいポスターを部屋に貼りたい、保存用も欲しい」っていう評価は、自分という軸を中心にしてると思うんです。でもそこからズレて、何かの目的の為の媒体にさせてしまうのは、一時的な扱いとしては仕方ないにせよ恒久的に行なうべきものじゃないと思うんですよ。
結局は「俺が理解できない」っていうだけですから、こうやって言葉を重ねれば重ねるほど、面白がってる人たちに冷や水をかけてることになってしまうのかもしれません。でも、ファンの心理が純粋だからこそ、CDを売る側の手法はもっと考え抜いたものであって良いってことは強く思うんです。今だって仕方がなく従ってるだけなわけですから、いつか気が変わって「もう懲りた!」と思ってその場から去って、そんな人が増えて市場のパイが小さくなってしまう前に、もう少しなんとかできる気がするんですよ。なんというか、評価の軸が自分を中心にした位置に存在して、後から思い返しても気分良くいられるような方法が。おんなじようにお金を使わせても、もっと多くの人が幸せでいられる方法があると思うんです。
……結局たいした結論は出ず、とっくに言い尽くされた戯れ言になってしまったのですけど。